映画「主戦場」(2019)

(長文注意)

慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画「主戦場」を観了。

とてつもない面白さだった。

 


実は、それに先立ち、

①『番組はなぜ改竄されたか「NHK・ETV事件」の真相』(2006)

②動画「2000年女性国際戦犯法廷を語り継ぐ」

https://satokonoheya-archive046.peatix.com/

をさらっと見ていた。

(下記で言及便宜のために、番号を付した。表題映画「主戦場」を③とする)

 


本当は「面白い」と言っては良くないのかもしれないが…

しかし、それ自体が「問題」としての「(歴史的)成熟」を意味することなのだとも感じている。

実は、本格的に「慰安婦問題」を「知りに行く」のは初めてだったのだ。

 


「面白い」というのも、非常に重層的な意味合いを込めているのだが、まずは簡単に次の2つから始めよう。

1「#metoo到来後」にウォッチしていること

2安倍前首相が死去し、旧安倍派の旧統一教会との関わりが世に明るみに出されると同時に、裏金問題で旧安倍派中心とする自民の闇が暴かれていること

 


最初に手にしたのが①だったのだが、安倍&旧安倍派重鎮下村博文が登場し、番組介入し改竄させる政治過程もつぶさに描かれている。

当時は、報道でぼんやりと表面的事実のみ知っていた程度だったのだが、「フェイクニュース」「ファクトチェック」という言葉が浸透した今から読み直すと、なかなかの衝撃である。

彼らがした(かった)のは「事実(史実)隠蔽」の表現が正しいだろうが。

 


順序が逆さまのようだが、そこから「女性国際戦犯法廷」に興味を持ち、ちょうど②という素晴らしい動画に行き会うことが出来た。

若手社会学者永山聡子さんが、金富子(キム・プジャ)さんを招き、「女性国際戦犯法廷」の内容や過程について歴史的証言と講義を行ってもらう内容。

金富子さんは、在日出身の慰安婦問題研究の第一人者。

金さんは、慰安婦問題運動を「90年代の#metoo運動」と呼んでいて、なるほどと思った。

 


①~③全体に言えることなのだが、全体的に知らないことだらけだった。

女性国際戦犯法廷」は知らない以前に、勝手に良くない印象を持っていた(「民間人が勝手に集まって日本や日本の戦争犯罪を裁く」といった)のだが、それ自体が完全に歪んだものだったと分かった。

慰安婦」という存在自体もだが、「慰安婦問題」の歴史的過程を、丹念に追うことが出来た。

 


②は有料コンテンツ(アーカイブ2024.12.31まで。興味ある方はぜひ視聴して欲しい)なので、あまり詳細に立ち入らないが、自分の感想のポイントを簡単に整理しておこう。

・「慰安婦」問題が、戦後日本の重層的タブーを閉じ込めた問題であること。

 特に、金富子さんが、「戦後民主主義には『菊(天皇制)のタブー』があった」と言及していたのが非常にラディカルで刺激的だった。

 「性暴力」の権力による隠蔽×人間破壊に関しては、既に映画「シー・セッド」で確認してある。

 比較してはならないし本来出来ないとは思うが、「慰安婦」問題の場合は歴史的に途轍もなく根深いタブーが重なり、秘されているわけだ。

・日本における「慰安婦」問題運動の、「加害国女性としての応答」の意義の認識

女性国際戦犯法廷は、「民間法廷」という建付けではあるが、ICJ他国際機関のエキスパートを結集していたこと。

 ヴェトナム戦争時「ラッセル法廷」を参照事例としていたとのこと。

 また、当時は南北融和の状況から、「南北コリア検事団」が実現したという。

ニュルンベルク-東京裁判を批判し、「女性や植民地住民の視点を初めて盛り込んだ」意義が評価されたこと

・ICJ前所長小和田恒さん(現皇后の父)が、宮澤政権時代に外務次官として慰安婦問題処理に対応していたこと。彼は、若手時代に日韓基本条約作成にも関わっている。「戦後皇室-日韓関係」の外郭が浮かび上がってくる。金富子さんが小和田さんに直接詰め寄ったというエピソードが非常に面白かった。

「天皇の義父」元国際司法裁判所長「『慰安婦』、法的整理以上のことすべき」 : 日本•国際 : hankyoreh japan

・本動画セミナー参加者の質問も極めてクリティカルで刺激的だった。

 日本国内では「慰安婦」問題支援者内でも、「インターセクシュアリティ」の問題があり、男性支援者は、「女性国際戦犯法廷」開廷を快く思わなかったという。

 また、②のホスト永山さんのゼミ内で「女性国際戦犯法廷」について扱った時は、男子学生が「国家の権威がなくなる」など反発の感想が目立ったらしい。

 

 

記事としてはおかしな順序になったが、ようやく表題映画③の感想になる。

制作者ミキ・デザキは日系米国人youtuberという。

全体を通して観ていく中で、「韓国人が慰安婦像を米国にも建立しようとしたこと」「それに対する安倍政権の対韓措置」にも、今までとは違ったグラデーションの見え方が出てきた。

 


もう一つ意外だったのは、今の日本の学校歴史教育では慰安婦問題が全く取り上げられていないため、日本の子どもたち(中高生辺り)は「慰安婦問題」を知らない様子が映されていたことだ。

自民政権が、愛国心やら学校教育にテコ入れしていたことは聞いていたのだが、「歴史教科書から全く削除していたのか」というのが少々新鮮な驚きだった。

これは確かに海外に行ったら恥を掻くことになろう。

(中朝ロなど)権威主義国家と同じでは恥ずかしいというものだ。

 


本映画では日本の「歴史修正主義」者たちが、どのような言動で、「慰安婦問題」に介入しようとしているか、その生々しい声を、重要人物から引き出している。

その中で、筆者が面白いと思ったのは、「新しい歴史教科書をつくる会」の悪名高いデマゴーグ藤岡信勝の、「国家というのは謝罪してはならないんですよ」という言葉だった。

この言葉は、「慰安婦問題」を「重層的タブー」として秘そうとする動機の重要な部分を示唆しているように思えたのだ。

 


慰安婦問題」に秘された「重層的タブー」とは何か。

主に、次の2つに収約できると見ている。

1「戦後天皇制×米国×戦後憲法(戦後民主主義)」の「すれ違い野合&もたれ合い」構造による、戦後日本アイデンティティの双頭分裂レジー

2戦後国際システム構築から見逃された「植民地責任」

 


前記事でも書いたが、筆者は個人的には、かつて「謝罪派」とも呼ばれたリベサヨの政治姿勢に懐疑的だ。

分かりやすいところでは、リベサヨ内で「天皇の戦争責任」を言及する中でも、「天皇制廃止」論者はかなりラディカル寄りに当たる。※

現代では、「天皇制廃止」を(理論ではなく)具体的に(=実現可能な政治プロセスとして)考える人物はあまりいないと考えられるが、それを「合法的に」行おうとすれば、「改憲(第1条)」するしかない。「絶対的護憲」が「正義」とされるリベサヨ勢で、果たしてそれを主張することは可能なのか。

 


次に、日本ではかつて「戦争責任」は追及されたが、「植民地責任」は日本だけでなく、欧米でも正面から法的には追及されていない。

それを行おうとすると、上述の通り、(植民地支配を見逃した)第1次~第2次大戦の国際秩序、また瑕疵のあったニュルンベルク-東京裁判体制にも異議を唱えねばならなくなるからだ。

米国嫌いなリベサヨ勢内でも、戦後「国連(旧連合国)」中心の国際法秩序に異を唱える人々は圧倒的少数派に属するはずだ。果たしてそこに切り込む「覚悟」が、日本のリベサヨにあるのか。

 


戦前の植民地権益が、列強内で「相互承認」されていたのは周知の事実だ。

戦後、アジア(東南アジア)においては、欧州諸国が「植民地責任」を殆ど不問となったのは、皮肉なことだが、日本軍が各国軍を植民地から追っ払ったからである。

彼らの数百年の「植民地責任」の代わりに、僅か数年間の軍事行動で東南アジアにおける「戦争責任」を背負ったのは日本だ。

最後の最後の局面では欧米と対立したが、「植民地責任」に関しては、本来欧米とは「共犯」だった筈だ。

日本が「植民地責任」を問われるというなら、当然、欧米にも同様に背負う義務がある(特に欧州はアフリカ諸国に対して)。

これは逃げたり目を逸らそうというのではない。法的な筋論の話である。

 


筆者は、日本のリベサヨには、上記2つのどちらの「覚悟」も絶無だと見ている。

というより、恐らく事の本質が「(植民地責任の)法的責任の追及」にあるとの理解が、リベサヨ勢の大部分にないのではなかろうか。

ポストコロニアル秩序においては、旧被植民地国民だけが、その「戦後法秩序」のおかしさに気づけた)

彼らが「反省と謝罪」に走るのは、思考力・洞察力の欠如と同時に、(歴史修正主義に走る右派同様に)「本当のことは分かりたくない」という意識が底にないだろうか。

それを知ってしまったら、憲法国際法秩序も、自分たちが基盤にしていたもの自体を根幹から揺るがせてしまう。

そして、「法的責任」を果たすためには、「行動」しなくてはならない。

「被害者、加害の事実、悲惨な戦災」に向き合っているフリはしたいが、自分たちが変わったり、行動したくはない。

だったら、ひたすら「反省と謝罪」を繰り返すに尽きる。

それなら、口先だけの言い逃れで、その場をやり過ごすことはできる。

「反省と謝罪」は、実はその地点から一歩も動こうとしない、というのがポイントである。つまり、「保身」であり「保守」のアクション(というよりポーズ)に過ぎないのだ。

それが、「戦後民主主義左翼(リベサヨ)」の正体であると同時に限界である。

そして、外交面で「謝罪」カードしか持たない(持ち得ない)リベサヨは、国内世論の説得という点では、(いかに「歴史修正主義」的であろうと)保守派に対して勝ち目がないのである。

 


慰安婦問題」は、「日本右翼」にとってだけタブーなのだと捉えるのは浅薄で、実は左翼にとってもタブーなのだ。

だから表面的な「反省と謝罪」を繰り返して、お茶を濁してやり過ごそうとする。

戦後日本の右翼と左翼は根っこは同じ。

「米国-米中連合国(国連)秩序」からも逃れられない。

「戦後天皇制×憲法」により、無理くり「パンドラの函」の蓋を閉じてある。

 


しかしその「パンドラの函」は、実際には日本だけでなく、他の旧連合国にとっても脅威なのではないのか。

そのカギを握っているのは実は日本だとすれば、少々痛快ではないか。

しかも、その場合、「軍事的戦争」ではなく、「文化戦×法廷戦」の形で、「アジア太平洋戦争」(日本にとっての「大東亜戦争」)のリベンジを果たせるのである。

 


戦後国際法秩序×戦後憲法体制下において、「あの戦争」を「戦争・軍事行動として」肯定することは難しいだろう。「解放戦争」としてはもちろん、「自衛戦争」としても。「植民地権益を守る」(満洲含む)ことが、戦争目的の主眼に置かれていたからだ。

「一度ついたウソをごまかすために、更に別のウソをついて、延々ウソをつき続けなくてはならなくなる」というが、現代の米国の戦争を見ていると、同様のことを感じる。

「戦争でできた歪みや穴を、さらに別の場所や時代での戦争を起こすことで埋めようとして、さらに歪みを拡大していく」という。

「あの戦争」の日本にとっての正体は、まさにそれだったのではないか。

それを誤魔化す必要は、今さら特にないだろう。

 


では、「あの戦争」は0だったのか?否。

歪んだ権威主義の国家であり、軍事行動を伴いつつも、「欧米中心の国際秩序」に(初めて)「異を唱えた」。

その「(現代にも引き続く)問題性」であり「問題提起」にのみ、唯一「(部分的な)義」を認められると考える。

「異を唱える」には「軍事行動」を伴うよりなかったし、アジアにいる他の列強全てを敵に回す以上、戦線を東アジア全域に拡大するよりなかった。

そしてその「裏側」の問題こそ、まさしく東アジアの戦場全域に存在した「慰安婦問題」だったのである。

 


右翼・保守の人々には気の毒で辛辣な言い方かもしれないが、「歴史修正主義」「歴史否定論」では、「あの戦争」の「義」を引き継ぐことは出来ない。

「義」を引き継ぎたければ、「東京裁判史観」を批判的に継承して「超克」するよりない。

今度はこちらから、匕首を「欧米=旧列強」諸国に突き付けてやるのだ。

今度は、軍事力ではなく、戦後日本が培ってきた文化力=法の力において。

戦後東西冷戦均衡の基軸となった「国連(旧連合国)」秩序を脅かされるのだから、中ソ(中ロ)の側も本来困る筈である。

(もっとも、既に事実上、「第3次大戦」の戦端が開かれているとしたら手遅れかもしれないが)

 

「それでも、『パンドラの函』を開いていいの?」と。

「せっかく、旧連合国で寄ってたかって牙を抜いた『俺たち(日本と日本人)』を本気にさせていいわけ?」と。

 

随分筆が滑り過ぎてしまったのだが、「慰安婦問題」に関する考えを述べようとするなら、「戦争責任」「植民地責任」全体と、内外政治構造全体を広く深く見つめた上でなければ意味がない。

 

 

長文になり恐縮、かつ最後になるのだが、「慰安婦問題」そのものへの政治スタンスを整理して、結びとしたい。

基本的な自分のフェミニズム・男性学に対する政治スタンスは、別垢でも述べている通り、「中道(保守中道)」である。

自分の「慰安婦問題」へのスタンスは、以下4つに整理できる。

 


1「慰安婦問題」は、最終的に政治問題・歴史問題としてではなく、「人権」問題として対処されるべきこと

 

2「内政」と「外交」は区別すべきこと

 「元慰安婦」への性暴力と、日本国内・社会への女性差別・性暴力が通底しているというリベサヨの議論は、筋論としては正しい。

 が、現実には、「元慰安婦」への補償と、国内の女性・ジェンダー諸問題とは全く別個の次元の問題だ。

 はっきり言ってしまえば、「元慰安婦」に対する補償問題が進むかどうかは、国内の女性・ジェンダー諸問題解決とは直接の繋がりはない。

 そうした理念性重視は重要であるし、また「外交」としての「慰安婦問題」は解決されるべきだが、それは「元慰安婦」支援の学者や運動家に任せればよい、というのを個人的立場にしている。

 ただし、「慰安婦問題」に対して、全く「当事者性」を放棄している訳ではない。それについては下記4で詳論する。

 


3対韓関係(対中関係も)は、常に「重層的」であるべきこと。

 「隣人、隣国同士だからこそ、いがみ合ってもいい」というのが基本的な政治姿勢となる。

 しかし、「本気で事を構える」ことは互いに避けるべきで、そのための努力は相互にすべきだ。

 韓流ブームのおかげで、日韓間の民間の交流は深まり、相互のカルチャーへの人々の理解や意識は高まった(同時に「嫌韓流」などのヘイトの高まりも無論見逃せないのだが)

 韓国は新興国としての立場を国際社会に確立し、成熟もしている。

 「互いに大人の国どうし」の関係を目指すべきで、それに近づいてもいる。

 


 「歴史問題」というのは、すれ違うのが当然のことではあるが、だからといって対話をやめるのではなく、「すれ違う、いがみ合う」のが前提で、対話・交流を続けるべきである。

 「歴史観」以前に、「歴史学」の営みそのものが、日韓(あるいは日中韓)で異なるのだから、分かり合えないのは当然である。

 かつてのリベサヨ謝罪派の唱えた、「ずっと反省・謝罪すべきだ」というのは馬鹿げている。「謝罪」があっても良いが、「重層的な交流の選択肢の中の一つ」に収めるべきだし、「政権交代ごとにまた0から」になる韓国の政治社会風土の悪弊は、日本側から指摘があって当然良い。そうした「相互性」の上に、初めて互いのルール作りが可能となる。

 安倍政権の対韓姿勢は(その「歴史修正主義」的姿勢とは別に)「謝罪だけでなくてもよい」ことを内外に示した画期的な意味合いがあったことを、高く評価する立場を取る。

 


 歴史問題は、これからもいがみ合い続けるし、そうあってよいと考える。

 韓国には、日本の「植民地責任」を追及する権利は無論あるが、日本は日本で「じゃあなんで自分たちで近代化してくれなかったのよ?」という「言い分」がある。

 (これは中国からの「戦争責任」追及に対しても同様のことが言える)※2

 「総論賛成、各論反対」でも議論はなかなか進まないことは、容易に想像されるのだ。

 しかしそれでも、いがみ合いが時にあったとしても、再び「同じテーブルにつける」関係であり続けるべきだ。

 そもそも「外交」というのは、相互的なものであるべきだが、韓国も日本も、右翼も左翼も、そうした根幹自体を見失っているのではなかろうか。

 激しい「歴史戦」が生み出した相互の社会分断は、両国の両陣営が、互いに猛省すべきである。

 

4 日本国内では、若い世代からの歴史問題糾弾のリスクが今後あり得ることを、上の世代は覚悟しておくべきこと。また、それに備え、内外に受皿を作っておくべきこと

 

 今の日本の若者は、歴史に無関心かつ、保守的な傾向が強いようだが、「SDGs」教育がデフォルトの彼らは、考え方が昭和世代とはまるで異なる。

 職場でも性的問題でも、公正な扱いを求めるのが自然である彼らが、歴史問題に関する理解を深めたら、「慰安婦問題」が「人権」面で不公正だと主張することは当然想定される。

 そこで、世代間断絶を深めるのでなく、それは内外間・世代間対話を深める好機であり、唯一のチャンスではなかろうか。

 これは筆者個人の姿勢・取組に過ぎないが、それに備えた内外への受け皿を作りに行くべきで、また行こうとも考えている。

 

 

いかがだったろうか。

筆者の議論は、「右に対しても左に対しても」極限的にラディカルである。

ナショナリズム」の立場ではなく、「左の立場からの」「大東亜戦争(部分的)肯定論」と言っていいかもしれない。

筆者の立場は、現代左翼・右翼双方の「戦後責任」を追究しつつ、また「戦前日本」と「戦後日本」の両方を超克した上で、「問題性・問題提起」としての「アジア太平洋戦争-東京裁判(史観)」の意義を捉えてすくっていく。

 


自分はなぜこのような立場を取るのか。

「歴史家」でも「政治家」でもなく、「哲学」の観点から、そして「日本-日本人」の立場から眺めたらどうなるか、また、「反省と謝罪」だけに拠らずに、なおかつ「自らの節や理」を曲げずに、積極的なアジアと世界の未来構築に携わっていきたい、という真剣な思いがあるからだ。

 


※筆者は「天皇制」に関しても、かなり独自のアイデアがある(いわば「グローバルな文化的天皇制」)のだが、逸れるので別の機会に扱う。

 「憲法」「戦後平和主義」に関しても同様である。


※2 前記事で述べた、ドイツのホロコーストに関する「歴史修正主義」「歴史否定」論との根本的相異は、「歴史認識の相互性」である。

 「『戦争責任』『植民地責任』を認めることに異論はない。しかし…」ということなのだ。

  ドイツのユダヤ人との関係は、「国家による民族の迫害」であるが、日韓(朝・台も)間は「国-植民地」間、日中間は「国家間」、日・東南アジア間は「国家-占領地」間の問題である。(他にも、占領地・戦場・関与国は、豪州・タイ・インドその他広大にわたるが各地詳細事情は今は省く)

 「ナチス・ドイツの欧州侵略の戦争責任の追及姿勢」から「日本の戦争責任」を類比・類推したい場合も、史的条件や政治関係の相違を明確にしたうえで行うべきである。

 

「あの戦争」の歴史にどう接近するか?

(長文注意)

歴史の勉強・研究を、数年ぶりに本格再開させることにした。

今までと異なるのは、「アジア太平洋戦争」に本腰を入れることにしたことだ。

学生時代は、敢えて棚上げにしていた。

無論、当時は、自らの力不足・時間不足や、別の優先課題を自覚していたからである。

 

興味自体は非常に強く持っていたし、迂遠な形で、近年も持ち続けてきた。

「迂遠な形で」というのは、直接その歴史(アジア太平洋戦争)の知識や情報を集めたり接しなくとも、周辺知識(別時代・他地域の歴史や、現代の軍事・戦争やその歴史、戦略の知識etc.)を収集したりはしてきたからだ。

趣味の旅行なども、広く取ればそのうちに入れることも出来よう。

 

棚上げにしてきたのには、別の理由も挙げられる。

華やか(かつ切実)な「歴史認識」論争を目撃した身にとっては、「自分自身での視点や知識の仕込み、また自らのスタンス」を確立するまでは、安易に踏み込むべきではない、と判断してきたからである。

「敢えて知ろうとしないし、発言もしない」というのを、「最低限の知的節度」と捉えて守ってきた、ということだ。

 

また、「(戦争の歴史そのものには)踏込みはしない」といいつつ、自分が学生時代にもっとも攻めた歴史は「アジア史」(時代や地域を特定しない)だったし、また、当時「歴史認識」論争も、左(リベサヨ)側の理論を「批判的に摂取」するというスタンスで臨んでいた。

即ち、学生時代から、「視点の形成」そのものには臨んでいた、ということができる。

 

なぜ「批判的な摂取」だったのか?

左(リベサヨ)側の論調は、(例えば戦争の悲惨さ、被害者、加害事実に対して)真摯で真面目ではあるものの、「視座そのものに、理論面でも実践面でも限界があるのではないか?」と、(当時は十分言語化できないまでも直観的に)感じていたことがある。

また、「回想・マルクス(主義)との距離の取り方」でも触れたが、彼らの「批判主義」「批判思想」的な、政治的哲学的、また運動面でのスタンスに強い反感を持っていた、ということも挙げられる。

 

「昔取った杵柄」ではないが、学生時代当時に培っていた視点は、大人になった今になって、ガチっと堅固な思考として固まってくるのを感じる。

最近、90年代末~ゼロ年代の「歴史認識」論争書をさらってみた。

「今ならば、当時言語化できなかったことができるし、大人の今なら、知識の仕込みや思考の整理にも時間が取れる」という現実の環境面の変化もある。

 

せっかくなので、先ほどの視点を先に進めよう。

以下が、(学生時代を乗り越えての)「今の」視点である。

リベサヨは「応答責任(応答可能性としての責任)」という概念を提示していたが、その「応答先」がなぜ「被害者」だけに限られているの?という疑問である。

彼らは、日本の保守・右翼的歴史観を、「歴史修正主義」「歴史否定」論と決めつけ、切り捨てている。

確かに、それが現(特に旧安倍)自民政権の公式姿勢にまで反映されるものに至ったことは事実だし、そうした政治的動きは無視できない。

しかし、「じゃあ何でリベサヨは、その動きの基底となった『保守的な大衆』に向き合おうとしないの?彼らには『応答』しなくていいわけ?なんでそれで『正しい歴史認識』だと言い切れるの?」というモヤモヤした憤懣が煮えたぎっていたのである。

 

自分が学生時代に「アジア史」をやってきたのは、自分なりに、「アジアとは何か?」「日本とアジアとの関係、『アジアの中の日本』として日本はどうふるまっていけばいいのか?」を考えたうえで、自ら行動に移したい、との意図があったからだ。

 

歴史認識」論争書を読みながら気づいたのは、「謝罪」から「歴史認識」を立ち上げよう、という強い衝動が20年前の論争当時にあった、ということだ。

無論当時、「戦後50年」という節目にあい、「戦争責任」追究が成されていた、ということは雰囲気としても、知識としても知っていた。

が、当時は「『謝罪』から『歴史認識』を立ち上げる」という不自然さに、違和感を持ちながらも、十分気づけていたわけではない。

「謝罪」というのは、「倫理的価値観からくる行動・行為」である。

政治的な動きやスタンスとして重要ではあっても、少なくとも、「歴史学」「歴史学研究」を、それ(謝罪)自体を目的に行う、というのは、「政治目的として」必要だったとしても、それだけでは「偏向」していると言わざるを得ない。

 

したがって、自分がもう一つ重要と考えたのは、「戦後歴史学」そのものの歴史、ということである。

(そんなものに興味を持つ時点で、恐ろしいほどの「歴史学」ヲタクなのかもしれないが笑)

先年、菅政権が学術会議を弾圧したことは記憶に新しいが、その中では、菅首相(当時)は、学術会議の「左翼」偏向を嫌ったようであること、また学術会議の抵抗者としては、日本の歴史学者(近現代史)の第一人者である加藤陽子のアクションも注目を集めていた。

「戦後歴史学」は、無論、左右にも、また日本以外も東洋・西洋と広範なカバー範囲を収めている。

が、「戦後歴史学」、その学界の営みそのものが、「あの戦争の反省」という強い刻印を出発点としている。

 

菅政権の弾圧は褒められたものではないし、実際不法、かつ不当な部分はある。

が、自分は「学術会議」の「左翼偏向」に、横暴・専横な形で(政治権力の側から)異議を唱えた面もあったと受け止めている。

(学術会議問題は重要なので、また別の機会に詳しく取り上げたい)

 

自分が最近、「歴史認識」論争書を読みながら気づいたのは、リベサヨ陣営が、「ドイツの事例」を下敷きにして、「歴史認識」を形成したり、様々な運動・政治的取り組みを行ってきた、ということだ。

それ自体は、「戦争の反省」「被害者や、加害の事実、悲惨な戦災」に真摯に向き合おうとしており、評価できる部分は無論ある。

 

しかし、この取り組みには、根本的な問題、(しかも「歴史学」研究としても)根幹になる部分が抜けている、と考えている。

「ドイツと日本の事例は同じなのか?本当に同一に扱えばいいのか?」

という部分である。

 

即ち、日本のリベサヨは、「ドイツが、戦後、ホロコーストの事実に向き合い、ひたすら謝罪と補償の歴史を積み重ねてきた」ことを高く評価し、日本の「歴史認識」も現実政治も、それに倣うべきだ、と考えているようなのである。

そうした考えや取組自体には、ある程度の妥当性を認められると考える。

しかし、だとしても、先ほど掲げた「日本とドイツの事例は同じなのか?本当に同一に扱えばいいのか?」は厳しく検証されてしかるべきである。

日本のリベサヨには、どうもそのような視点が希薄なまま、ただ「日本もドイツに倣うべきだ」と安易に考え、飛びつき過ぎてないか?というのが最大の疑問なのだ。

 

なおかつ、それは、単に歴史研究だけを行って済む問題ではなく、多国間・多アクター間もそうであるし、何より国内の「歴史を巡る内戦」もそうなら、国内は無論、必要なら「現行の国際秩序」にも異を唱えなければ、論理的な整合性を追求することはできない。

日本のリベサヨには、この部分にも「実践的欺瞞」がないか?というのを勘繰ってしまう。

つまり、自分は「日本」という安全地帯にいて、「自分は被害者、加害の事実、悲惨な戦争・戦災に向き合っているよ」という正義ヅラをして、いちばん叩きやすい「日本政府」「日本の歴史観」だけを叩く、というスタンスだ。

 

「植民地責任」というものを厳しく激しく追究するならば、第1次~第2次大戦で生まれた(欧米中心の主権国家中心の)現行国際秩序そのものに異議を唱えなくてはならない。

日本のリベサヨでは、そうした理論的射程や実践に移す者は、絶無とは言わないが、極めて少ない。

「そうした問題に対しては、各国々で取り組むべきだ」と、結局は「国家単位の近代主義」を是認した研究・政治スタンスを、無批判の大前提にしてしまっているのだ。

 

「日本社会や日本の学界・メディア界でヌクヌクしながら、日本政府だけを攻撃する」というのは、いちばん快適な環境であり作業である。笑

彼ら自身の圧倒的多数は、(「日本国家・社会」を糾弾しながら)「日本語で、日本の学界で、日本語読者に向けて、日本政府を糾弾する」ナショナリストでしかないのだ。

そうした「生活実践と理論・研究・運動の一貫性の無さ」に対し、深い欺瞞性や嫌悪を感じざるを得ない。

(日本の人文・社会科学の「近代主義」に限界性がある、という点を指摘したいが、それは別の機会としたい)

 

日本の保守大衆が、多数派として、「歴史修正主義」的な動きそのものを支持している、と見るのは過大評価が過ぎるし、大衆をあまりに愚弄する見方だろう。

政治的に(消極的に)そちらを支持するよりないのは、日本のリベサヨには、そこまでの理論的・実践的説得力や魅力が欠如、少なくとも不足しているからだと考えている。

(何より、民主党政権は「結果」を十分に出せなかった、見せられなかったというのが大きいが)

民主党政権だけでなく、日本のリベサヨは、「アジアと世界に対して」、あまりに「結果」を出せな過ぎた。

 

それ自体が悪いわけではないが、自らを取り巻く環境や実力を十分に認識できないまま、「運動」や自らの考える「正義」に走り過ぎた結果が「バックラッシュ」だったと、個人的には考えている。

自分の持論だが、政治面・社会面の受け皿の十分でないまま、「正義」だけを唱えたり、「運動」に走っても、決してうまくはいかない。

そうしたアクション自体は、「当事者」にとっては無論必要なことであるが、それがきちんと政治や社会に受け止められ、対応されるかは別の話である。

 

「(被害者)当事者」を責めているのではなく、戦略(的状況認識)ミスや、理論・実践不足は、明らかに日本のリベサヨ、特に「知識人」の力不足=「自己責任」だったとみている。

90年代というのは、バブルの残照で、まだ豊かさの名残があり、それがリベサヨを支持する力の根源になっていたのに、そのことを十分に認識できず、その力を適切な部分に、適切な形で使うのに失敗してしまったのである。

 

随分と枝道に逸れながら論じてきた。

日本リベサヨに対して皮肉な目線を浴びせてきたが、日本の歴史学もそうだし、「歴史認識」論争には相当の厚みがあり、自分自身は、実際には敬意を持ちながら、そうした知的成果を浴びている訳である。

しかし、「歴史学研究」そのものは進み続けている一方で、根幹部分は「ツッコミ対象」だらけだ、と見ているわけだ。

 

自分は、日本右翼の「歴史修正主義」「歴史否定」論は、無論支持しない。

ただ、彼らがそうした動きに走るのには「理由」があるのは事実だし、それらが「ホロコースト否定論」と同じだ、というのも(重なり合う部分も無論あるが)、やはりやや無理があると見ざるを得ない。

その部分はやはり、諸学において、諸現象として厳密に比較が為されて然るべきである。

 

「アジア太平洋戦争」をめぐる「歴史的事実」は、無限というほど膨大である。

無論、まだ明るみになっていない「事実」もまた膨大だろう。

だからこそ、「事実」に向き合う際の視点やスタンスは、明確に持っていなくてはならぬ。

 

ポイントになるのは、「歴史認識」=「歴史に向き合う」というその行為そのものが、「政治的営為」だということだと思う。

日本のリベサヨの知識人は、そうした「政治的・社会的現実」をあまりに無視し(「自分たちだけが正義だ」という地点に立てこもる)傲慢さがあったように見えてならない。

だからこそ、現地点においては、少なくとも政治的現実としては蹉跌、少なくとも殆ど「逼塞」を余儀なくされている。

 

自分は、日本のリベサヨ知識人と同じ轍は踏まない。

彼らを反面教師としたうえで、きちんと歴史を学び直し、「未来に繋げ得る、その基盤となる」歴史認識をつくっていき、その上の実践を行いたい。

では、これは「歴史修正主義」「歴史否定」論なのか。

それは、これからのアウトプットを人々に見て判断してもらうよりないだろう。

 

 

岩波「世界」で時論に「復帰」

岩波書店の雑誌「世界」のバックナンバーを何冊か入手した。

自分でも意外?だが、たぶん、きちんと読むのは初めてだと思う。

高校時代は時論的雑誌を好んで読んだ頃があったが、完全に保守偏向だったし、大学では時論よりはアカデミック(哲学・歴史・政治経済)に傾斜したためだ。

 

そして、以前も書いたが、10年代は、政治・社会動向全般から遠ざかった。

自分のやりたい事や生活に忙しいこともあったが、震災・民主党政権混乱~アベ一極体制からの現実逃避だったと捉えていい。

最近はようやく、近年の政治・社会動向を広く目配りするだけの余裕が戻ってきた。

 

前に朝日新聞に課金したとの記事を書き、今度は岩波の「世界」か、というと左翼的だとみられるかもしれない。

実際、学生時代まで、岩波書店というのは「日本リベサヨの知的拠点」とのバイアスが強く働いていた。

といっても、アカデミックな著作の非常に多くが岩波から出ているので無視することもできなかったわけだが。

 

同雑誌「世界」を見てみようと思ったのは、

1リベサヨが、安保法制騒ぎ(敗北)以降、どのように政治・社会を認識するようになったか

2同雑誌「世界」が、アクチュアルなトピックをふんだんに扱っているらしいのが面白そうだと感じたこと

による。

 

1,2は深く結びついている、というより、「1の問題意識から始まって、雑誌『世界』を思い出してみたところ、『意外と面白そうじゃん』」となった、という訳だ。

学生時代の「世界」のイメージは、もっと知的に高踏的で、大衆性が薄く、時代のアクチュアルな論争的トピックからは遊離している、というものだったのだ。

それが、近年扱っているトピックと言えば、

「トランプ、維新、SNS、chatGPT、習近平・中国、SDGs、性暴力、メディア忖度」etc.

1の目的は、十分に果たせそうだ、と踏んだわけだ。

 

時論からすっかり遠ざかったため、最近になって、Amazonで関連ワードを検索にかけて本を探そうとしても、当然だが、ほぼ知らない論客や研究者しか出てこないと気づいた。

学生時代から大きく様変わりした訳だ。

このこと自体も、かなり意外な結果だった。

世で求められるテーマも変われば、ニーズのある論客も変わった。

リベサヨの世界ですらそうだ、という事実自体に驚いたわけだ。

十年一日のごとく、「護憲」だの「9条」だのを叫んでいれば済む牧歌的時代はとっくに去っていた。

しかし、そうだとすると、「敗北」後のリベサヨのスタンスは一体どうなっているの?というのが主要関心事となる。

 

前も書いた通り、学生時代は、リベサヨの言説を、批判的に読み込みながら、自らの学問や考えを形成してきた。

もっとも、当時はやはり探究に限界があって、自分なりの視点を固めるところまでは至らなかった。

歴史-政治に関する部分は、非常に重要かつ自分も興味関心の深い部分だが、とにかく対象とすべき範囲が広大過ぎ、学ぶこと考えるべきことが膨大すぎて、学生時代の手に負える範囲ではない。

それで、(自分の関心の中心にありながらも)「アジア現代史、特に戦争史・ポストコロニアル史」に関しては、いったん「棚上げ」にしたまま、近年まで推移してきていた。

この巨大なテーマは、ポジショニングやフレーミング、「自分自身の言葉をどこからどう立ち上げるか、そこからどこの地平を目指すか」を定位するのが、そもそも容易ではないのだ。

 

「今ならカバーできそうだ」と思ったのは、自分の中の武器がある程度揃ったという、能力・時間・視点面の余裕状況への判断がある。

とりわけ、安倍前首相狙撃死自体が、「時代を振り返る」転機となった。

 

学生時代以来で、「歴史」への意欲が高まっている。

時代の帰趨からは逃れられず、なおかつそれに「抵抗」することですらない、かもしれないが。

所詮、現実の前では自己満足に過ぎぬ結果に終わるかも知れなくとも、この機に、知れること考えられることはきちんと整理して足場を固めておきたい。

 

自分の「歴史観」そのものは割と明確な部分もあって、安保法制騒動でリベサヨが「敗北」したことには、割と「冷笑的」である。

が、リベサヨ自身には、「被害者意識」が強く、「歴史的に」なぜ「敗北が運命付けられていたか」を冷静に振り返ることは出来ないだろう、というさらに皮肉な「二重の冷笑性」をも纏っている。

いやそれとも、「反省」できるくらいにはリベサヨも「成長」したのか。そうだとすれば、いずれ「嬉しい誤算」ではあるのだが。

いずれにせよ、学生時代に知的に大小世話になってきた言説に対し、「弔いの意を込めて」振り返るということだ。

 

何より、戦略や戦術、あるいはその認識は誤り続けてきたとしても、「事実」認識やその叙述自体への信頼度は、リベサヨが抜けているのは確かだ。

書いている内容そのものが腹立たしいものであったとしても、そこから逃れたり、目を逸らしてはならない。

 

政治・社会動向としては、「一歩先」も見えづらい、また明るい未来の見出しづらい、苦しい時代が続いていくと想定される。

そうであればこそ、単に「生存術」だけでなく、「歴史観」そのものを確かなものとしておくことが、自分自身が迷わないための道標の役割を果たしてくれる筈だ。

 

回想・マルクス(主義)との距離の取り方

近年、「マルクスルネサンス」というような、マルクスの新たな読まれ方や、その読みを展開する思想家が、急速に注目される流れがあるようだ。

自分自身は、そこに対してさほどの本格的な興味は持ってこなかったが、それを求める社会のニーズというかトレンド、感度には理解できるものがあると思っている。

「グローバル規模での経済格差の極大化×気候変動の可視化」に対してどう対処するのか。その問題性に対して、マルクス再読が動員されているのは間違いないだろう。

 

自分はそうした流れとは別個に、近年、「マルクス本体」をチラチラと読もうとしている。

学生時代は、マルクス本体を読んだ経験はほぼ絶無だったのだ。

とっくに「(哲学的にも経済学的にも)マルクスは死んだ」と感じられていた時代だったのだ。

 

ただ、完全に無視した・できたという訳でもない。

言うまでもなく、日本の社会理論・思想界や、経済理論やその歴史においても、「マルクス主義」の流れは強く存在してきたからだ。

今回は、学生時代以降、「マルクス(主義)」に対してどのような距離の取り方をしていたかを、軽く振返ってみたい。

 

学生時代当時は、「マルクス=反哲学・反経済学」だという、明確な(思想史的)意識や押さえ方はまだ不十分だったと思う。

ただし、(マルクス本体というより)「マルクス主義」への胡散臭さや警戒感というのは非常に強く持っていたと記憶している。

なぜか。

 

自分が当時個人的に用いていたのが、「批判主義」「批判思想」という用語だ。

社会・歴史・政治経済に対し、とにかく「批判」しかしないというスタンス。

(今なお「左翼」全般にそう言えるだろうが)

「批判」自体が悪いのでなく、「何で批判しかしないの?何様のつもり?それでなんでそんな無責任なの?」という哲学的・政治的スタンスへの根本的疑問があったのだ。

今も基本的にその見方は変わっていないと言えるのだが。

 

ただ一方で、思想史含めて、歴史全般には広くて縦深的な興味があったから、マルクス主義が、社会理論の「柱」として作用していることは掴んでいた。

ただし、その「射程の広さ」までは掴みかねていたし、また当時は当然、「自分自身の視点やスタンス」というものを固められたわけでもない。

 

その後、自分自身の取り組みを行う中では、「社会学の中で、マルクス主義でない部分」を抽出しようとして、非常に難しく限界性を感じた、という恐らく特殊な経験がある。

(一方、これが根本的な自分の学的・政治経済的経験とも位置付けられるだろうから、それについても機会を改めて述べたい)

 

マルクス主義」に対する距離感の掴み方の難しさは、他にも複数あった。

・「外来の思想や理論」、またその言語の構築物であることへの警戒感と拒否感

 →その言語を身に付けたり、それにより理論武装したりしたくなかった

 →ある程度固まった理論があったとして、日本という社会や現実にどの程度適用可能か掴みかねた

・その理論そのものの「賞味期限」の問題

  →マルクス以外に、ソシュールや、フロイト-ラカンなどにもある程度言える。

   思想的・哲学的に重要な地位を占め、現代にも影響を与えているとして、その理論を「今でも摂取」していいものなのか?

   当時は、そうしたリアタイで情報を持っていたわけではないが、上記理論の「非科学性」の匂いをかぎ取っていた。

   →一方で、「唯物論」は「理論」として、物理学はじめ各種科学理論の直接の淵源や影響力を持った部分もある。

    その理論史=哲学史には根源的な理解をしたいという、交錯した思惑もあった。即ち、純粋な哲学的=科学史的動機だ。 

・「文学」的・「文芸批評」的言説や、そのあり方への距離感の難しさ。   

 あるいは、自分独自の「反文学」=「反ポモ的文学的方法論」的スタンス。 

 →マルクス主義は、文学や文学理論にも影響を与えていた。   

  特に自分が興味があったのは、マルクス(主義)と小林秀雄の関係だった。

  それは、(上記「唯物論史」とも関わりつつ)自分の哲学の中核問題の一つを成すに至る。

 →それとは別個に、ポストモダン、すなわち主に「現代フランス思想」に属するが、その「文学的方法論」=「哲学の文学化」に強い違和感や拒否感を覚えていた。

  それ故に、マルクス主義と深いかかわりを持つポモに対して、哲学的重要性は認めつつも、かなり距離感を持って眺める、といった複雑なスタンスを取っていた。

・経済学・経済理論に関して… 

 →学生時代は、マルクス含め、「既存の経済理論」本体を学び取る、といったことはあまりしなかった。

  既存の理論に対し、全然納得感・興味を持てるものがなかったということと、また当時は数学的・統計的基盤がなかったのと両方だ。

  だから学生時代は当然、「じゃあ自分で経済理論を作ってやろう」などとの不遜な野心は持てる状況になかった(そもそも自分が「経済学をやる」という展望すらなかった)。それはずっとあと、むしろ近年のことだ。

  しかし、「経済学・経済理論の歴史」の中で、中まで深く踏み込まないものの、マルクスマルクス主義の流れがあることは知った。

・政治史と政治理論(史)に対して…

 →マルクスマルクス主義が、日本含め世界の政治史や政治理論史に巨大な影響を与え続けたのは言うまでもない。

  が、自分の学生当時は、「もうそのまま消滅する」流れかと思っていた。

  だから、当初は「共産党の歴史」のようなものを読むことすら、(自分がいかにも共産党社会主義思想に今更興味を持っているのが嫌な気がして)強い拒否感を覚えていた記憶もある。笑

  しかし、上記の通り、「思想史」というべきものは、ジャンルを問わず押さえよう、というのが基本スタンスだったから、社会主義思想史的なものや、日本政治史的なもの辺りまでは押さえ得たと思う。

  ただ、マルクス主義寄りの戦後以降の政治理論や政治思想は、上記の通り、あまり近づかなかった。

etc.

 

こんなところだろうか。

当時は、マルクス(主義)の射程も、自分自身がどうそこに向かうべきかも掴みかねていた。

一方で、歴史・思想史に与えている影響力の大きさの上で、無視することもできず、ひたすら「迂回」戦略を取っていた、といったところか。

また、「戦略」と言えるかどうかも微妙なところだ。

上記の「批判主義・批判思想」への感覚的・主観的な拒否感・嫌悪感という面が強かったかもしれない。

 

例えていうなら、

「ウナギ屋の外からかなりの距離をもって、ウナギの香りだけ嗅いでいるが、それが本物か偽物かもわからず、だから店に入るのか、そこで食べるのか・食べられるのか、も警戒しながらひたすらうろついていた」

といったところか。笑

(ニセウナギのうな丼というのは、実際に日本の精進料理にもあって、筆者は作ったこともある。興味ある方はクックパッドで探してみて欲しい。w)

 

マルクスやその足跡の巨大さ自体は、無論認めている。

マルクス本体」に向き合う勇気・気概が湧いたのは、自分なりに、哲学・経済学だけでなく、数学・科学、政治・社会全般に一通りのスタンスと視点、また戦略の少なくとも見通しを立てられた、という確固たる自信ができてからのことだ。

 

「歴史の猖獗」

年初は、コロナ禍以来の海外でインドネシアで過ごした。

そこで、長年閉ざしていた扉をぐわっと一挙に開いてしまったような感触。

 

思想・哲学とほぼ同時に「塩漬け」にしてきた「歴史」に「復帰」せねばならない時を迎えている。

「歴史」は、常に回帰すべき「原点」、あるいは「αでありωでもある」、というべきかもしれない。

 

「塩漬け」にしてきたというのは、課題感のストックは具体的にあるが、「取り組むのは『今』ではない」として「棚上げ」にしてきたことを意味している。

それが「いつ」というのは分かっていなかったが、その「時」が来た。

自分の中の準備とか、(少しだが)蓄えてきた「力」がある。

 

「歴史」といった場合、自分の場合、カバーしたい・しようとする範囲やテーマがあまりに広大・巨大過ぎるという、それ自体の課題がある。

学生時代に立てた志は、「(通史・一般史としての)『アジア史』『アジア経済史』を叙述したい」というものだ。

目的は、「『アジア人』としてのアイデンティティ」創出(もしくは「捏造」)のためだ。

我ながら、よくそんなことを考えられたものだと呆れる。笑

が、回帰したのはその地平だ。

 

しかし、「歴史」で取り組みたいのはそれだけですらない。

そして、自分はいわゆる「歴史学」をやりたいのでも、「歴史学者」になりたいのでもない。

(「歴史学者」はとかく倒錯しがちだが)「歴史」自体が目的になってはならぬ。

「歴史」は未来創出のための「ツール」であり「プラットフォーム」である。

そうあるために、常に「回帰すべき原点」として更新されていかなくてはならぬ。

それが、自分自身の「歴史」像である。

 

自分は、「戦後史学(界)」総体に対して、極めて批判的なスタンスを持っている。

それについても、いずれ詳しく述べていくだろう。

本ブログは、自分の「歴史」研究総体を、本格的に展開することに目的があるのではない。

が、目指しているプランや、大まかな考え方、それらの整理を行っていくことはできるだろう。

 

差当りの課題感について整理しておこう。

今は、別垢でも併せつつ、自分のカバーしようとする広大な関心範囲を少しずつ吐き出しつつ、自らの「歴史」に対する射程を見定めようとしている。

「歴史」へのリハビリと、再トレーニング・プラクティスを行おうとしている訳だ。

(そのために複数ブログに分割している訳だ)

どの枠で何を扱うか?も徐々に定位するよりなかろう。

 

視座や取り組みたい対象は割とクリアな一方で、「方法論」を未だ明確に言語化できていない。

対象が多様だからというのもあるが、はっきり言えば、目的が遠大過ぎ、絞り込めてないと言わねばならないだろう。

「遠大な目的」は、上記の「アジア史/アジア経済史の叙述」以外にもある。

が、ここですべてを述べる余裕も、今その必要もない。

 

学生時代は、実際、「そんなこと本当にできるのか?」と絶えざる懐疑に苛まれていた。

しかし、「それに向かって、歩んできてしまった」ゆえに、「実現の目」が出てきてしまった。

まるで他人事のような書き方だが、実感としてはそうなのだ。

朝日新聞デジタルに初課金!

発狂したのでもとち狂ったのでもない。笑

とはいえ、この行動には我ながら驚くが。

朝日新聞ではなく、web論座に用があったのだが、あいにく今年の4月でつぶれており、アーカイブだけとなっていた。朝日新聞デジタルに課金すれば(アカウント有りのため1か月無料プランは残念ながら使えなかった)アーカイブが見れるとのことで、課金に至った訳で、我ながら感心する。

朝日新聞自体にはあまり関心はないが、論座の扱っている論客の各種論説に用があったのだ。

とはいえ、朝日自体の動向というのも、近年はまるで知ることすらなかった。「吉田調書」事件以降、どんな経過をたどったのか、若干気にはなる。

戦前の二の舞で戦争翼賛路線に転向していけば、それはそれでまさしく「朝日新聞のDNA」で面白くなるのだが。笑 そうなるのかならないのか、それはそれで興味深いポイントだ。

もっとも、自分はサブスク類は1か月ごとに見直している。来月には切っている可能性も濃厚なのだけど。笑

初めからなかった「アジア」と「アジア主義」

学生時代は、「アジア史」を専門にやった、つもりでいた(「東洋史」ではない)。

今となっては馬鹿げた話だが、「アジア」を「存在する実体」として捉え、その歴史を学ぶ、というスタンスでいたわけだ。

 

「踊るだいぶ手前で迷夢が醒めた」、といったところか。

「アジア」などというものは、初めからなかった。

そうした言説も結構触れてはいたが、まだまだ青臭かったのだと思う。

「力」を軸にしたその後の世界の変化が大きかった部分もあるが。

「アジア」とか「アジア主義」というのは、戦前戦中の左派系の国粋主義者・「ならずもの」を踊らせるためのエサに過ぎなかった。

 

といって、別段やってきた「アジア史」は、無駄だったわけでは全くない。

ただ、投じる・信じるべき「理想」は砕かれ、「冷徹な現実を認識するための道具」へと転落した、それだけのことだ。

グローバル化する日本」を受容する土台を作ってくれもしたし。

 

夢は砕けた。というより、初めから文字通り「幻」に過ぎなかった。

別に、その残骸への執着自体もない。

が、新たに「信ずる先」がないと、実存的に困る部分がある。

 

「泥沼」に自らを投ずること自体が嫌なわけではな、い。

が、「自分だけが生き残る」にせよ、「人」だの「国」だのに何がしかコミットするにせよ、「力」と「展望」、両方がなければどうにもならない。

(明確な「展望」があれば、「力」はあとからついてくる、とも思っているが)

 

「抗ってもどうにもならない」戦争の現実を生き抜かねばならぬ。

が、「忍耐強く信じ、地足に地道に這ってでも」守れる、粘り腰を持ち続けたい。

その根源・根本が今はない。

「混沌たる世界の義」というものが。

正義は「一つ」ではない、ことが可視化された。

(それが分かっているだけでも「是」とすべきかもしれないが、「その先」を求めているのだ)

 

「今のロシア」は、「あの戦争時の日本」と重なってならない。

だからこそ、「ロシアを一方的に切り捨て、向こうに回していいのか」という気持ちも湧く。

(それは、戦後の対ロ交渉も、戦前からの対ロ対ソ関係も全て無にすることを意味する)

 

今の戦争の泥沼化こそは、「善悪二元論」式の世界観では行き詰ってしまうことを示している気がしてならない。

しかし、「権威主義」が暴走する歯止めが必要なのも事実だ。

今は、そのバランスが喪われてしまった(100%ではなく95%がた)段階なのだ。

 

日本にも、タテマエとは別に、数々の様々な「権威主義」の残滓が陰に陽に遺っている。

それを容認しはしないが、若い時分と違って、「白黒つけない」こともまた、「オトナの知恵」であることは、だんだん分かってきた。

卑怯な、薄汚い「清濁併せ呑む」「腹芸」といった芸当だ。

しかし、そのワザは、「仁義なき闘い」、果てしない血みどろの潰し合いを避ける知恵の産物であり手法でもある。

その「狡猾さ」「悪賢さ」こそに、「自分も人も生かす」ヒントがありはしないか。

 

それは「狡知」であり、「義」ではない、かもしれぬ。

しかし「人を生かす」こともまた事実だ。

自分の根源にあるのは、「衣食足りて礼節を知る」ということだ。

人は「タテマエ」を喰って生きることはできない。

物質的に生きた先に、「タテマエ」が生きる。

「殺し合い、生き合う」中では、「タテマエ」よりは、生きるための「狡知」、「駆け引き」である。「タテマエ」が作用するとしても、その「駆け引きの道具」に過ぎぬ。

 

ようやく、結論に近いものが見えてきた。

世界に多少ゆとりがあるうちは、「道具としてのタテマエ」を少しは押し出せるやもしれぬ。

しかし、それがなくなれば、もう「力」と「狡知」だけのサバイバルしか残らない。

 

かつて、「割拠」というタームを掲げたことがある。

今は、そこまでの自信、というより「世界への興味」がなくなっている、だろうか。

というより「世界の持続可能性」を信じてないから、「自分自身の持続性」も信じられない、というのが正しい。

 

「死に場所」としての「大義」を求めていたが、もうそれは叶わないだろう。

「政治」ではなく、「器」か、「死に際、すがるに値する」だけの聖典を生み出しに行く、そしてそのために自分の「肉体」を遣いたい。

よそに「大義」を求める、所詮、それ自体が「他力本願」だったのだ。

大義」はなければ、自分で作るしかない。

それが「俺」の出した「答え」であり、「覚悟」だ。