岩波書店の雑誌「世界」のバックナンバーを何冊か入手した。
自分でも意外?だが、たぶん、きちんと読むのは初めてだと思う。
高校時代は時論的雑誌を好んで読んだ頃があったが、完全に保守偏向だったし、大学では時論よりはアカデミック(哲学・歴史・政治経済)に傾斜したためだ。
そして、以前も書いたが、10年代は、政治・社会動向全般から遠ざかった。
自分のやりたい事や生活に忙しいこともあったが、震災・民主党政権混乱~アベ一極体制からの現実逃避だったと捉えていい。
最近はようやく、近年の政治・社会動向を広く目配りするだけの余裕が戻ってきた。
前に朝日新聞に課金したとの記事を書き、今度は岩波の「世界」か、というと左翼的だとみられるかもしれない。
実際、学生時代まで、岩波書店というのは「日本リベサヨの知的拠点」とのバイアスが強く働いていた。
といっても、アカデミックな著作の非常に多くが岩波から出ているので無視することもできなかったわけだが。
同雑誌「世界」を見てみようと思ったのは、
1リベサヨが、安保法制騒ぎ(敗北)以降、どのように政治・社会を認識するようになったか
2同雑誌「世界」が、アクチュアルなトピックをふんだんに扱っているらしいのが面白そうだと感じたこと
による。
1,2は深く結びついている、というより、「1の問題意識から始まって、雑誌『世界』を思い出してみたところ、『意外と面白そうじゃん』」となった、という訳だ。
学生時代の「世界」のイメージは、もっと知的に高踏的で、大衆性が薄く、時代のアクチュアルな論争的トピックからは遊離している、というものだったのだ。
それが、近年扱っているトピックと言えば、
「トランプ、維新、SNS、chatGPT、習近平・中国、SDGs、性暴力、メディア忖度」etc.
1の目的は、十分に果たせそうだ、と踏んだわけだ。
時論からすっかり遠ざかったため、最近になって、Amazonで関連ワードを検索にかけて本を探そうとしても、当然だが、ほぼ知らない論客や研究者しか出てこないと気づいた。
学生時代から大きく様変わりした訳だ。
このこと自体も、かなり意外な結果だった。
世で求められるテーマも変われば、ニーズのある論客も変わった。
リベサヨの世界ですらそうだ、という事実自体に驚いたわけだ。
十年一日のごとく、「護憲」だの「9条」だのを叫んでいれば済む牧歌的時代はとっくに去っていた。
しかし、そうだとすると、「敗北」後のリベサヨのスタンスは一体どうなっているの?というのが主要関心事となる。
前も書いた通り、学生時代は、リベサヨの言説を、批判的に読み込みながら、自らの学問や考えを形成してきた。
もっとも、当時はやはり探究に限界があって、自分なりの視点を固めるところまでは至らなかった。
歴史-政治に関する部分は、非常に重要かつ自分も興味関心の深い部分だが、とにかく対象とすべき範囲が広大過ぎ、学ぶこと考えるべきことが膨大すぎて、学生時代の手に負える範囲ではない。
それで、(自分の関心の中心にありながらも)「アジア現代史、特に戦争史・ポストコロニアル史」に関しては、いったん「棚上げ」にしたまま、近年まで推移してきていた。
この巨大なテーマは、ポジショニングやフレーミング、「自分自身の言葉をどこからどう立ち上げるか、そこからどこの地平を目指すか」を定位するのが、そもそも容易ではないのだ。
「今ならカバーできそうだ」と思ったのは、自分の中の武器がある程度揃ったという、能力・時間・視点面の余裕状況への判断がある。
とりわけ、安倍前首相狙撃死自体が、「時代を振り返る」転機となった。
学生時代以来で、「歴史」への意欲が高まっている。
時代の帰趨からは逃れられず、なおかつそれに「抵抗」することですらない、かもしれないが。
所詮、現実の前では自己満足に過ぎぬ結果に終わるかも知れなくとも、この機に、知れること考えられることはきちんと整理して足場を固めておきたい。
自分の「歴史観」そのものは割と明確な部分もあって、安保法制騒動でリベサヨが「敗北」したことには、割と「冷笑的」である。
が、リベサヨ自身には、「被害者意識」が強く、「歴史的に」なぜ「敗北が運命付けられていたか」を冷静に振り返ることは出来ないだろう、というさらに皮肉な「二重の冷笑性」をも纏っている。
いやそれとも、「反省」できるくらいにはリベサヨも「成長」したのか。そうだとすれば、いずれ「嬉しい誤算」ではあるのだが。
いずれにせよ、学生時代に知的に大小世話になってきた言説に対し、「弔いの意を込めて」振り返るということだ。
何より、戦略や戦術、あるいはその認識は誤り続けてきたとしても、「事実」認識やその叙述自体への信頼度は、リベサヨが抜けているのは確かだ。
書いている内容そのものが腹立たしいものであったとしても、そこから逃れたり、目を逸らしてはならない。
政治・社会動向としては、「一歩先」も見えづらい、また明るい未来の見出しづらい、苦しい時代が続いていくと想定される。
そうであればこそ、単に「生存術」だけでなく、「歴史観」そのものを確かなものとしておくことが、自分自身が迷わないための道標の役割を果たしてくれる筈だ。