「あの戦争」の歴史にどう接近するか?

(長文注意)

歴史の勉強・研究を、数年ぶりに本格再開させることにした。

今までと異なるのは、「アジア太平洋戦争」に本腰を入れることにしたことだ。

学生時代は、敢えて棚上げにしていた。

無論、当時は、自らの力不足・時間不足や、別の優先課題を自覚していたからである。

 

興味自体は非常に強く持っていたし、迂遠な形で、近年も持ち続けてきた。

「迂遠な形で」というのは、直接その歴史(アジア太平洋戦争)の知識や情報を集めたり接しなくとも、周辺知識(別時代・他地域の歴史や、現代の軍事・戦争やその歴史、戦略の知識etc.)を収集したりはしてきたからだ。

趣味の旅行なども、広く取ればそのうちに入れることも出来よう。

 

棚上げにしてきたのには、別の理由も挙げられる。

華やか(かつ切実)な「歴史認識」論争を目撃した身にとっては、「自分自身での視点や知識の仕込み、また自らのスタンス」を確立するまでは、安易に踏み込むべきではない、と判断してきたからである。

「敢えて知ろうとしないし、発言もしない」というのを、「最低限の知的節度」と捉えて守ってきた、ということだ。

 

また、「(戦争の歴史そのものには)踏込みはしない」といいつつ、自分が学生時代にもっとも攻めた歴史は「アジア史」(時代や地域を特定しない)だったし、また、当時「歴史認識」論争も、左(リベサヨ)側の理論を「批判的に摂取」するというスタンスで臨んでいた。

即ち、学生時代から、「視点の形成」そのものには臨んでいた、ということができる。

 

なぜ「批判的な摂取」だったのか?

左(リベサヨ)側の論調は、(例えば戦争の悲惨さ、被害者、加害事実に対して)真摯で真面目ではあるものの、「視座そのものに、理論面でも実践面でも限界があるのではないか?」と、(当時は十分言語化できないまでも直観的に)感じていたことがある。

また、「回想・マルクス(主義)との距離の取り方」でも触れたが、彼らの「批判主義」「批判思想」的な、政治的哲学的、また運動面でのスタンスに強い反感を持っていた、ということも挙げられる。

 

「昔取った杵柄」ではないが、学生時代当時に培っていた視点は、大人になった今になって、ガチっと堅固な思考として固まってくるのを感じる。

最近、90年代末~ゼロ年代の「歴史認識」論争書をさらってみた。

「今ならば、当時言語化できなかったことができるし、大人の今なら、知識の仕込みや思考の整理にも時間が取れる」という現実の環境面の変化もある。

 

せっかくなので、先ほどの視点を先に進めよう。

以下が、(学生時代を乗り越えての)「今の」視点である。

リベサヨは「応答責任(応答可能性としての責任)」という概念を提示していたが、その「応答先」がなぜ「被害者」だけに限られているの?という疑問である。

彼らは、日本の保守・右翼的歴史観を、「歴史修正主義」「歴史否定」論と決めつけ、切り捨てている。

確かに、それが現(特に旧安倍)自民政権の公式姿勢にまで反映されるものに至ったことは事実だし、そうした政治的動きは無視できない。

しかし、「じゃあ何でリベサヨは、その動きの基底となった『保守的な大衆』に向き合おうとしないの?彼らには『応答』しなくていいわけ?なんでそれで『正しい歴史認識』だと言い切れるの?」というモヤモヤした憤懣が煮えたぎっていたのである。

 

自分が学生時代に「アジア史」をやってきたのは、自分なりに、「アジアとは何か?」「日本とアジアとの関係、『アジアの中の日本』として日本はどうふるまっていけばいいのか?」を考えたうえで、自ら行動に移したい、との意図があったからだ。

 

歴史認識」論争書を読みながら気づいたのは、「謝罪」から「歴史認識」を立ち上げよう、という強い衝動が20年前の論争当時にあった、ということだ。

無論当時、「戦後50年」という節目にあい、「戦争責任」追究が成されていた、ということは雰囲気としても、知識としても知っていた。

が、当時は「『謝罪』から『歴史認識』を立ち上げる」という不自然さに、違和感を持ちながらも、十分気づけていたわけではない。

「謝罪」というのは、「倫理的価値観からくる行動・行為」である。

政治的な動きやスタンスとして重要ではあっても、少なくとも、「歴史学」「歴史学研究」を、それ(謝罪)自体を目的に行う、というのは、「政治目的として」必要だったとしても、それだけでは「偏向」していると言わざるを得ない。

 

したがって、自分がもう一つ重要と考えたのは、「戦後歴史学」そのものの歴史、ということである。

(そんなものに興味を持つ時点で、恐ろしいほどの「歴史学」ヲタクなのかもしれないが笑)

先年、菅政権が学術会議を弾圧したことは記憶に新しいが、その中では、菅首相(当時)は、学術会議の「左翼」偏向を嫌ったようであること、また学術会議の抵抗者としては、日本の歴史学者(近現代史)の第一人者である加藤陽子のアクションも注目を集めていた。

「戦後歴史学」は、無論、左右にも、また日本以外も東洋・西洋と広範なカバー範囲を収めている。

が、「戦後歴史学」、その学界の営みそのものが、「あの戦争の反省」という強い刻印を出発点としている。

 

菅政権の弾圧は褒められたものではないし、実際不法、かつ不当な部分はある。

が、自分は「学術会議」の「左翼偏向」に、横暴・専横な形で(政治権力の側から)異議を唱えた面もあったと受け止めている。

(学術会議問題は重要なので、また別の機会に詳しく取り上げたい)

 

自分が最近、「歴史認識」論争書を読みながら気づいたのは、リベサヨ陣営が、「ドイツの事例」を下敷きにして、「歴史認識」を形成したり、様々な運動・政治的取り組みを行ってきた、ということだ。

それ自体は、「戦争の反省」「被害者や、加害の事実、悲惨な戦災」に真摯に向き合おうとしており、評価できる部分は無論ある。

 

しかし、この取り組みには、根本的な問題、(しかも「歴史学」研究としても)根幹になる部分が抜けている、と考えている。

「ドイツと日本の事例は同じなのか?本当に同一に扱えばいいのか?」

という部分である。

 

即ち、日本のリベサヨは、「ドイツが、戦後、ホロコーストの事実に向き合い、ひたすら謝罪と補償の歴史を積み重ねてきた」ことを高く評価し、日本の「歴史認識」も現実政治も、それに倣うべきだ、と考えているようなのである。

そうした考えや取組自体には、ある程度の妥当性を認められると考える。

しかし、だとしても、先ほど掲げた「日本とドイツの事例は同じなのか?本当に同一に扱えばいいのか?」は厳しく検証されてしかるべきである。

日本のリベサヨには、どうもそのような視点が希薄なまま、ただ「日本もドイツに倣うべきだ」と安易に考え、飛びつき過ぎてないか?というのが最大の疑問なのだ。

 

なおかつ、それは、単に歴史研究だけを行って済む問題ではなく、多国間・多アクター間もそうであるし、何より国内の「歴史を巡る内戦」もそうなら、国内は無論、必要なら「現行の国際秩序」にも異を唱えなければ、論理的な整合性を追求することはできない。

日本のリベサヨには、この部分にも「実践的欺瞞」がないか?というのを勘繰ってしまう。

つまり、自分は「日本」という安全地帯にいて、「自分は被害者、加害の事実、悲惨な戦争・戦災に向き合っているよ」という正義ヅラをして、いちばん叩きやすい「日本政府」「日本の歴史観」だけを叩く、というスタンスだ。

 

「植民地責任」というものを厳しく激しく追究するならば、第1次~第2次大戦で生まれた(欧米中心の主権国家中心の)現行国際秩序そのものに異議を唱えなくてはならない。

日本のリベサヨでは、そうした理論的射程や実践に移す者は、絶無とは言わないが、極めて少ない。

「そうした問題に対しては、各国々で取り組むべきだ」と、結局は「国家単位の近代主義」を是認した研究・政治スタンスを、無批判の大前提にしてしまっているのだ。

 

「日本社会や日本の学界・メディア界でヌクヌクしながら、日本政府だけを攻撃する」というのは、いちばん快適な環境であり作業である。笑

彼ら自身の圧倒的多数は、(「日本国家・社会」を糾弾しながら)「日本語で、日本の学界で、日本語読者に向けて、日本政府を糾弾する」ナショナリストでしかないのだ。

そうした「生活実践と理論・研究・運動の一貫性の無さ」に対し、深い欺瞞性や嫌悪を感じざるを得ない。

(日本の人文・社会科学の「近代主義」に限界性がある、という点を指摘したいが、それは別の機会としたい)

 

日本の保守大衆が、多数派として、「歴史修正主義」的な動きそのものを支持している、と見るのは過大評価が過ぎるし、大衆をあまりに愚弄する見方だろう。

政治的に(消極的に)そちらを支持するよりないのは、日本のリベサヨには、そこまでの理論的・実践的説得力や魅力が欠如、少なくとも不足しているからだと考えている。

(何より、民主党政権は「結果」を十分に出せなかった、見せられなかったというのが大きいが)

民主党政権だけでなく、日本のリベサヨは、「アジアと世界に対して」、あまりに「結果」を出せな過ぎた。

 

それ自体が悪いわけではないが、自らを取り巻く環境や実力を十分に認識できないまま、「運動」や自らの考える「正義」に走り過ぎた結果が「バックラッシュ」だったと、個人的には考えている。

自分の持論だが、政治面・社会面の受け皿の十分でないまま、「正義」だけを唱えたり、「運動」に走っても、決してうまくはいかない。

そうしたアクション自体は、「当事者」にとっては無論必要なことであるが、それがきちんと政治や社会に受け止められ、対応されるかは別の話である。

 

「(被害者)当事者」を責めているのではなく、戦略(的状況認識)ミスや、理論・実践不足は、明らかに日本のリベサヨ、特に「知識人」の力不足=「自己責任」だったとみている。

90年代というのは、バブルの残照で、まだ豊かさの名残があり、それがリベサヨを支持する力の根源になっていたのに、そのことを十分に認識できず、その力を適切な部分に、適切な形で使うのに失敗してしまったのである。

 

随分と枝道に逸れながら論じてきた。

日本リベサヨに対して皮肉な目線を浴びせてきたが、日本の歴史学もそうだし、「歴史認識」論争には相当の厚みがあり、自分自身は、実際には敬意を持ちながら、そうした知的成果を浴びている訳である。

しかし、「歴史学研究」そのものは進み続けている一方で、根幹部分は「ツッコミ対象」だらけだ、と見ているわけだ。

 

自分は、日本右翼の「歴史修正主義」「歴史否定」論は、無論支持しない。

ただ、彼らがそうした動きに走るのには「理由」があるのは事実だし、それらが「ホロコースト否定論」と同じだ、というのも(重なり合う部分も無論あるが)、やはりやや無理があると見ざるを得ない。

その部分はやはり、諸学において、諸現象として厳密に比較が為されて然るべきである。

 

「アジア太平洋戦争」をめぐる「歴史的事実」は、無限というほど膨大である。

無論、まだ明るみになっていない「事実」もまた膨大だろう。

だからこそ、「事実」に向き合う際の視点やスタンスは、明確に持っていなくてはならぬ。

 

ポイントになるのは、「歴史認識」=「歴史に向き合う」というその行為そのものが、「政治的営為」だということだと思う。

日本のリベサヨの知識人は、そうした「政治的・社会的現実」をあまりに無視し(「自分たちだけが正義だ」という地点に立てこもる)傲慢さがあったように見えてならない。

だからこそ、現地点においては、少なくとも政治的現実としては蹉跌、少なくとも殆ど「逼塞」を余儀なくされている。

 

自分は、日本のリベサヨ知識人と同じ轍は踏まない。

彼らを反面教師としたうえで、きちんと歴史を学び直し、「未来に繋げ得る、その基盤となる」歴史認識をつくっていき、その上の実践を行いたい。

では、これは「歴史修正主義」「歴史否定」論なのか。

それは、これからのアウトプットを人々に見て判断してもらうよりないだろう。