(かなり入り組んだ議論をしています。苦手な方は退出をオススメします)
Mrs.GREEN APPLEの「コロンブス」MVを巡る炎上騒動に関して…
全体的に「しょーもな」というのが基本スタンスではある一方、自分の力点は、「批判(者)や批判騒動そのものの浅薄さ」を問題にしたい、というのが本論となる。
(主に歴史=「歴史観・歴史学・歴史教育」の観点からの議論となっている)
MVの内容や、アーティスト、それを支える芸能・メディアサイドの浅薄は今さらここで俎上に載せるべきことは特にない。
この手の差別的内容やその無自覚が、メディアシーンや有名クリエイターの作品内で反映されて炎上する騒動は、近年枚挙にいとまがないといったところだ。
(今年は「逆ベクトル」=「バーベンハイマ―」における「キノコ雲」騒動は、「日本発」による顕著な批判だった点で画期だったとみている)
制作に携わったメディアやクリエイターサイドが、「何も学んでないのか」と厳しく批判される流れが、もはや「定番」と化した観もある。
「しかし…」とも、自分は思うのである。
「同様の騒動が繰り返されるのは、批判や批判者が浅薄で本質を抉れてない、かつそれ故に力を持ててないからじゃないの?」と。
自分は学生時代に「アジア史」をやったおかげで、「歴史学」(特に日本において)の視座とか、既存の学問領域区分のあり方(のおかしさや限界性)について深く考える機会があったし、その素地が、今でも「ハイコンテクストな文化・社会批判の文脈」理解やそのキャパを支えてくれている、という実感がある。
「多様性」「包摂性」というスローガンが唱えられ、次第に社会に少しずつ定着しつつある。
それ自体は好ましいし、当然そうあるべきだ。
しかし、自分はこの手の騒動の「浅薄さ」に強い違和感を覚えるのだ。
その正体は何か。
「歴史観そのものをアップデートしないのに、社会観が改まる筈がない」ということなのだ。
そして、「そのアップデートの作業は、社会的に担保されてるの?されてないでしょ」というのが自分のツッコミである。
「歴史観のアップデート」と一口に言っても並大抵のことではない。
それは、歴史学や歴史教育そのもののアップデートが必要な部分もあれば、「昔子ども時代に受けた学校内容を、大人になってから再教育してアップデートする」といった作業も当然必要になる。
「これは今では差別になるんですよ」といった研修だけ受けても、「根幹の部分=歴史観・社会観の刷新」がなければ、その研修や研修後は、単にその受講者の「差別アクション暗記ゲーム」にしかならないだろう。
SDGs教育がデフォルトの子どもたちやZ世代と、そうでなかったそれ以前の世代を、一緒くたにしてしまうのは、やはり無茶だろうというのが一つ。
そして、「若者の浅薄な歴史観」は、結局は「浅薄な歴史教育・歴史観」、すなわち「それも大人がもたらしたものでしかないでしょ?」というのが2点目となる。
自分がこの手の批判が「浅薄だ」と感じるのは、こうした「歴史観」への切り込みを避けて、単なる「リスクヘッジ・リスク対策の不足」に問題を矮小化しているように思えるからなのだ。
おっさんたちの頭がアップデートされてないのは論外だとして、「じゃあどうやったらそれが『体系的に』出来るの?」
「出来るとして、誰が、どんな視座においてそれが可能なの?」
「具体的にどう進められるの?」
といった疑問も浮かび上がってくる。
そして結局は、
「地位や権力を握っているのはおっさんだから、都度この手の騒動で葬り去っていくしかないよな」という、これまた定番の結論に終始していくこととなるだろう。
また、自分の冷笑にはそれとは別に、「メディア上で発言している人々の忖度」も含まれざるを得ない。
メディア上の発言者は、自分たちの立場(発言できる場とかその仕事)を失えないので、直接間接に世話になっているなら猶更、どうしても大手メディアやインフルエンサーへの遠慮がにじみ出てしまい、「手ぬるい批判」やその視座に転落せざるを得ない。
「せっかく批判するのに、なんでそんなズレた批判しかできないのよ?」という訳だ。
そして根本的なことだが、「歴史学や歴史教育、歴史観のアップデート」そのものも、全部追い付いていない、ということだ。
当然ながら、それは歴史学者や歴史教師だけの問題ではなく、「社会ぐるみ」で取り組むべき作業である。
「だけどあんたら、そもそもそんなに『歴史』に興味あったっけ?ないでしょ」というのが自分の最後のツッコミとなる。
自分は同アカウント別ブログで、映画を通じて、黒人差別やその運動性と歴史について深めたり考えたりしたことがある。
ユダ&ブラック・メシア(2021) - creconte’s blog
だから自分が「エライだろう」というマウントがしたいのではない。
これは、(自分の趣味・知的興味によるということもあるが)何かのガイドラインによったり強制によるのでなく、「自発性」による理解の積極的なアクションであるということと、そうはいっても、(単に「映画を観る」という単純なアクション一つでも)その「動機の調達」も、「実際の行動」も相当の気合と手間を要する、ということを強調したいのである。
「多様性」「包摂性」は、人から強いられて身に付くものではない。
自分自身が持つ社会観は、知識水準だけでなく、その人個人の人格と深く結合している。
それは、その個人だけでなく、その人が育ったり、今いる組織・業務環境とも関わってくる。
じゃあそこでは皆、そうした厳しいアップデートが皆にガイドラインとして強いていて、「自己矯正」できているのか、またそれが保証されているのか。
「制度的」に考えるなら、そうしたフローまで考えなくてはならない筈だ。
この手の批判や批判騒動には、今後も浅薄さや隔靴掻痒の感を免れまい。
しかし、それには構造的問題や限界性があるのも指摘しなくてはフェアではない、とも感じるのだ。
当然ながら、今の自分にその手の影響力があるという訳でもない。
残念かつダサいことには自覚的ではあるが。