「思考のフロンティア」で「思想を再起動」

学生時代に好んで読んでいた、岩波書店「思考のフロンティア」というシリーズがある。

「公共性」「デモクラシー」「フェミニズム」といった様々な現代思想のアクチュアルなトピックに基づいて、各論者が厚めのエッセイを書き、末尾には参考図書も厚めに紹介する、優れた入門書のシリーズだ。

当時、全部ではないが、その一部は好んで読み影響も受けたし、そこで紹介されている図書も結構目を通したものだ。

 

学生時代以降、実社会に入るに当たって、思想や哲学はいったん「棚上げ」していた。

が、最近は、自分自身の「生活」の積み重ねが、ようやく「思想」に追いついてきたな、との実感があり、「復帰」することにしたのだ。

とはいえ、長いこと放ったらかしにしていた部分で錆びついており、そもそもどう取り組めばいいのか、取っ掛かりが分からない。

そこに、この「思考のフロンティア」シリーズがハマるのでは、と思いついたのだ。

(それ以外に大学の講義録や他の参考書リストもあるが、それについても追々述べていくだろう)

 

「思考のフロンティア」シリーズは、それ自体がいわゆる「古典」になるものという訳ではない。

「思想」に属するものの、どちらかというと上述の通り、アクチュアルなトピックに基づいて各論者が整理した論考というべきだろう。

 

だが、それ故に、「今の筆者自身」が再読するのに「ちょうどいい」素材なのだ。

なぜか。またどういうことなのか。

 

実社会に出るに当たり、「思想」「哲学」は「棚上げ」にしたといったが、それだけではなく、学生時代に幅広く抱いていた、「政治」「社会」的関心もまた、「塩漬け」にしたままにしていた部分が大きかったからだ。

もっとも、それは、政治・社会変動に伴う「自己疎外」(世間、とりわけ政治的な動きに積極的に興味を持たなくなった)という面もまた大きいのだけど。

 

したがって、「再起動」に当たっては、「思想」と同時に「社会観察」をも同時にリニューアルする必要がある、という訳なのだ。

そして、そこでこそ当該「思考のフロンティア」シリーズが役立つのである。

 

「思考のフロンティア」シリーズは、トピックごとに個人差はあるものの、当代きっての論者である(あった)のは間違いない。

(もっとも、岩波の好む執筆陣であり、保守・右寄りの人々からは忌避されることも想像に難くない。笑)

とはいえ、その面々は、今となっては少し旧く、現代から見ると「1,2世代前のロートル、ないしアナクロ」と見なされるのかもしれない。

しかし、それが却って筆者自身には良いのだ。

 

というのも、筆者は、近年の人社系の学術的・思想的論考に殆ど目を通しておらず、どのような動向か、どのような論者が有力かも知らないからだ。

それは、興味がない・取るに足りない・見るのが怖い・読むのが面倒etc.の諸々の理由も当然全て込みである。

 

無論、学生時代以降、「政治・社会的な出来事」について、まるで考えなかったわけでは全くない。

また、この1,2年ほどはいわば「リハビリ」のように、人社系の本や学生時代に見ていた文献などもちらちら目を通し直すようになっていた。

ただ、これまでは、そうしたトピックについて広くかつ深く考えるだけの「土台」が作れなかったし、取り組めるだけの時間的・精神的余裕に欠けていたのだ。

ようやく「満を持して」それができるだけの準備が整った、という訳だ。

 

「思考のフロンティア」シリーズは、その作業のための「テニスの壁打ち用の壁」の役割を果たしてくれるだろうと思っている。

つまり、「自分と世界の変化を遡って投影する叩き台」である。

改めて、各トピックに基づいて自分自身の論考を整理しつつ、また時間の経過に伴う社会変動の観察と関連知識の更新のための土台になるものが必要なのだ。

 

ただし、残念ながらシリーズの全巻が優れている、という訳でもない。笑

トピックによっては要らないものもある。笑

また逆に、学生当時は、それ自体棚上げして、殆ど読まなかったもの・トピックもあった。それらに関しては「新挑戦」に属していくだろう。

 

筆者は、民主党政権時代も、安倍政権時代も、政治への失望感・忌避感が強く、そもそも「何も見えない・聞こえない」に近い状況を過ごしていた(無論生活に没頭して余裕がなかった面もある)。

良くも悪くも、その時期「政治的・社会的な積極的なアクション」をしてもいないし、そもそも当時の詳しい政治社会動向の、情報や知識も不十分なままできたのだ。

これは「無知」というより、「戦略的無関心・非関与」のスタンスを取ってきた、と言ってもいい。

だが、その時期は過ぎた。

 

筆者は本来、考えるのが好きで楽しめるほうだ。

だが、2010年代は、世界・社会の激変度が激しすぎてフォローし切れなかったために、目も耳も塞いでいた。

「知ること」そのものに嫌気がさしていたのだ。

また、変な形で関与したり、歪んだ認識をするのも嫌だ。

それならば、最初から「意識的に物事を見ない・知らない」ほうが良い。

もし「知る・知りたい」というなら、とことん広く深い視点から眺められるようにならなければ意味はない。

そうでなければ、妙な言い方だが、「世界に対してフェア」であることができない。

 

つまり、単に「精神的・時間的余裕」が出来たというだけでなく、「見る・知る覚悟」が形成されたことを意味している。

「思考のフロンティア」シリーズで扱われている様々な基礎タームに随いつつ、長年「塩漬け」にしておいた思想課題・社会課題について、粘り強くそして広く深く掘り下げて考えていきたい。